獣医師広報板ニュース

イヌ掲示板過去発言No.1100-200401-152

長文:〈論理的ならば〉反論歓迎
投稿日 2004年1月18日(日)22時48分 はたの

ある事象が問題視されているのを解決するには二つの道筋があります。
 ひとつは事象をなくすか軽減させるかする。
 いまひとつは、問題視する閾値を下げる。
 この両者は必ずしも排他的に対立するわけではなく、相補的に両立可能ですし、そのほうがより効果的でもあります。

 イヌの排泄でいうのなら、
 前者は、室内で排泄させる、糞を拾う、尿を水で流す、といったアプローチです。
 後者は、多くの人がイヌの排泄物を気にしなくなるよう、せめて現況以上に過敏にならないよう働きかけるといったアプローチです。
 
 繰り返しますが相補的に両立しますし、それによって、いわば38度線非武装地帯のような緩衝部を設けることが可能になります。イヌを、イヌとして在るのに差し支えないほどには枉げずとも、了解に達し得ます。

 どちらにせよ、片方だけでは困難が発生します。
 前者だけですと、際限なく「清潔の水準」が上がっていってしまいます。これは実際に起きていますね。糞を始末しましようから始まり、尿はどうする抜け毛はどうする・・・。ネコなんかだと足跡さえ問題視されることが現にありますから、イヌについても遠くない将来、「(足ではなく)道を汚さないために靴を履かせろ」なんてことにもなりかねません。服を着せろ、ヨダレが垂れないようヘルメット被せろ、全身を覆え・・・となっても不思議ではありません。
 日本人の清潔・不潔感には、本人の自覚の有無にかかわらず、科学的・合理的でない「ケガレ」の感覚が強く影響しています。つまり、合理的な歯止めは期待薄なのですから。
 さらに、「このぐらいは当然」という、これまたまったく合理的な根拠を書く言説があたかも裏付けであるかのように提示されると、際限なさ、歯止めが聞かない傾向はさらに助長されます。なぜならば、「当然の義務ではないけれど、アナタの快・不快を慮って譲歩しますよ」という明示がないと、ポトラッチのような「反対給付を導く贈与」のシステムに乗らないからです。
 地域の清掃運動をやるからには、イヌを飼っておらず排泄物を過度に不快に思うひとびとへのある種の恩着せがましさと、それによって議論となったときに受けて立つ覚悟が入り用です。
 むろん、後者だけでも困難は発生します。玄関やら商店のガラス戸などではない、家の壁などの実害が生じない箇所でさえイヌの尿がかかると不快と思うという感情は、不合理に肥大した自我とケガレがあいまったものですから、合理的な説得は困難なのですから。物別れに終わらないためには前者「も」いるわけです。
 だからこそ相補的な戦略が望ましいと考えます。

 そして、すでにご指摘がありますが、清潔・不潔の「常識」は、まず文化や時代によって異なり、現在の日本と限定しても、地方・地域によって大きく異なります(aspipapaさんの最初のお題では場の明示がなかったから全般な話としたまで)。ご清潔な新興住宅地では狭量な住民が多いことが予想されます。縁台でひとびとがしばしば寛いでするような路地では、かなりの箇所が「実害」を生じることになりますから、住民の許容度が高くても問題となりがちでしょう。
 他方、畜産が盛んな地域でしたら、糞でさえまったく問題になりません。もともと畜舎があったところへ住宅が広がる場合も少なくないので、そういう「町」もあります。イヌの尿を気にしたらアホかってなもんです。
 むろん、これらの中間的な場所もあるますね。

 要するに、清潔・不潔の線引きには合理的根拠はありません。まあ、文化ってなそんなもんですね。味噌汁を御飯にかけるか、味噌汁の中に御飯を入れるかで互いに相手が下品と非難して夫婦ゲンカになった、ってな、名は失念しましたが著名な落語家のエピソードもあります。社会に通用云々といわれても、その社会そのものが一様ではないのですから、どうにもなりません。

 大きく見れば、しかし日本の現況はかなり特異というか、異常であり、その進行も相当な速度で進んでいます。世界史を省みて、いまの日本の一部ほどに動物の排泄物を嫌った文化・時代がありますでしょうか? 平安末期の日本の宮中はそれに近いかな? (←それでポシャりましたねえ)ぐらいで、ポピュラリティを得ていたケースはなかなか思い当たりませんね。

>>最近の風潮として、病的な潔癖症が蔓延しています。
 と考える所以です。
 aspipapaさんが悩まれていること、また私の前回の投稿に対して反対意見が多いこともこの裏付けとなりましょう。書いて良かった、てなもんです。みんなに賛成してもらえる意見は書き込む意義がありませんから。
 こうした潔癖的傾向の害は、なにもイヌを飼いにくくなることに限りません。部落差別、ホームレスの排除と差別、「カタチが整った野菜が欲しい」「BSE怖い」ことからくる環境負荷などとも通底します。不潔=全悪とすると、「ほど」や「加減」が判らなくなりますから、逆にブレた際には「汚ギャル」やSTDの流行のように極端なところまでいきがちになります。国家社会主義ドイツ労働者党がいかに清潔を好み、その結果かがどうなったかも周知でありましょう。潔癖ファッショってのは怖いものなのです。

 映画「禁じられた遊び」には、主人公が、農家で出されたミルクにハエが入っていて困るシーンがありました。
 昭和30年代終頃には、乳児に与えるものすべてを加熱殺菌しようとしてビタミンを破壊して健康障害を引き起こすなんてこともありました。
 戸川幸夫が、「庭の生垣に身の成る木を植えている。子供たちは食べたがるが、親が、槌がついていて不潔といって止める。土は不潔なものではない。お百姓さんは土に頬ずりしたりいするものだ」と嘆いたのは昭和50年代だったか。
 まあ、日本においては前記のケガレ観念に加えて占領軍によるDDTまぶしやら、小学校における駆やらもあってコンプレックス化していますから余計ややこしいのでしょうけれど。

 潮か変わるまでは退却戦ですから、それが妥当なTPOにおいては、強い対決を避けるための方策を否定するものではありません。しかし、殿軍は引く一方ではダメで、時には逆襲しないと押しまくられて終りです。
 某獣医大学の新入生の過半数がイヌに触った経験がなかった、てなご時世です。赤ちゃんのオシッコがテレビCMとちがって青くない、といって医者に駆け込むお母さんがいるご時世です。
 少なくとも潔癖な子供だった私自身はそうですが、動物と触れることによって、生き物の肉体にまつわる諸物を不潔と感じてしまう偏見から逃れられたかたもありましょう。
 誰かがイヤだというからやめる、のというのは、イヤだといったもん勝ちを認めることであり、その肥大したエゴの全肯定に迎合することであり、とめどなくなります。
 動物を所有するからには、対立を回避する一方でなく、清潔・不潔の閾値を下げる試みも同時に行なわれて欲しいものだと考えます。

 なお、イヌは家畜ですが、とはいうものの、コミュニケーション手段としての排泄物の使用を禁じるのは容易ではありません。容易でないということは、虐待に繋がり兼ねない、ということです。
 嗅覚オリエンテッドであるのは大多数の哺乳類の根源的な特徴であり、重層社会を造るというのは、ヒト、イヌ=オオカミ、ゲラダヒヒなど限られた種の特徴です。
 従って、排泄物を使ったコミュニケーションはイヌがイヌであるための根っこであり、家畜だから変えられるというものではありません。変わるとするならば、それはイヌがイヌでなくなるときでしょう。主体の実存のおおもとは、関係性なのですから。

 現在生存しているヒトのおそらく全個体は、イヌがいなければ生まれていません。
 自己の実存にいささかなりとも感謝の念があるのだとすれば、その一部はイヌに分け与えられてしかるべきものです。イヌの排泄物につべこべいうのは忘恩の限りといえます。
 イヌの飼い主には、イヌの代弁者として、こうした指摘をすることも期待しているものです。

 どうもちゃんと文章と読まずに噛み付いてきておられる向きがあるようなので付記しておきますが、個人的には、TPOに応じて対応を変えます。
 必要ないなら糞も放置することがあります。両手にあふれるほどのクマの糞や、1メートル四方を覆いつくすカモシカの糞や、牛糞鶏糞の小山がある横でイヌの糞だけ処理しても無意味ですから。
 他方、ヒトが利用する場では、自家のイヌの糞のみならず、よそのイヌの糞、野生動物の糞、渋滞で我慢できなくなってわき道に入ってしかたなくなさったとおぼしきティッシュ添えの人糞なども処理します。TPOによってはイヌに尿をさせる場所も考えます。必要なら水で流すこともあります。
 しかし、この理由は一切のべき論によらず、自分チのイヌが糞を踏んだ足でベッドに入ってほしくないという、個人的な偏見によるものであると自覚しています。べき論で他者に強制することを愧じるものです。べき論に拠ってツルムこともまた愧じます。
 ご近所に糞の始末をしない飼い主もおられますが、聞かれないかぎり、始末する「べき」だなんて恥ずかしくていう気になりません。そのイヌの糞も黙って私が始末すればいいことです。誇ることでもなし、他者に要求する筋でもなし。「私」の不快は私自身の努力によって軽減すればすみます。
 戸外においてある私の所有物に野生動物であれ家畜であれ、の排泄物がかかろうが、あるいはイタズラで傷つけられようが、悪いのはその行為を為したものでなく、そこにそれを置いた自分と考えます。単に管理不行き届きです。大切なものならしまっておけばいいだけのこと。

>aspipapaさん。
 門前に糞をされて不快だとしても、堪えればいいんです。その感覚が単に感覚にすぎない、偏見にすぎない、人類史に照らしたらけったいなもんだな、とご自覚なさればすみます。
 あるいは、片付けつつ、「どこのワンちゃんか知らないけど、立派なウンチが出たねえ、体調いいんだね、良かったね」と祝福すればすみます。自己愛の延長としてではなく、イヌそれ自体が好きってのはそういうことでしょう。
 私はそうしています。あ、昨日はペ×ィチャム貰ったんだね、とかもね(さすがにペディ×ャムのうちどれなのかは私の鼻ではわかりませんが)。
 
 清潔・不潔軸を含めたものの感じかたもまたその社会の文化の一部であり、であるからには、合理的な根拠を持ちません。すべてが偏見と独断です。ある個人の周辺のひとびとの反応はむろん、その社会の多数の支持があるものでも、共同幻想にすぎず真理とは無関係です。レヴィ=ストロースを論破するパラダイムがないからには、そういうことです(ポスト構造主義の時代=構造主義は抑えておいて当然の時代なのにプレ構造主義で話されるといささか疲れます・・・)。

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