from 2002.9.24


日々思う事は沢山ありますが
夜 ちょっと一息ついた時 ワイン片手に思いを語る
そんな時間が欲しいものです
(とは言っても実際はお酒飲まないのですけど(^^ゞ)




でも〜
現実はなかなか忙しくて〜

それでも 一杯飲みながら 言いたい事も言ってみたい、、、
そんな思いをほろ酔いかげんで言ってみようと
すてまるの独り言を書いてみました

日々思う事を徒然なるままに書き留めた
そんなお部屋もあっていいかな?




命って
9/24


カラス

カコタン
小話1

花ぼたん

Mac

2/3 命

2/15人生

遊び

6/4
輝き

6/12
色々

7/17
言葉

9/24
ピンク

11/25
朱鷺王

1/25
しつけ

3/31
法律

4/1
事故

9/21〜
慢性硬膜下血腫

05/8/14
在宅介護

06/1/4
病院治療とは

07/12/2
今年ももう終わり



命って
9/24

動物達と物心付いてから付き合いを始めて半世紀を過ぎてしまった(とっくにね)。
自分の幼い頃を思うと、人間にも動物達にももっともっと自由があったと今の世の中を見る度に思ってしまう。
背丈程の草の中で、犬達と思いっきり隠れんぼうをして遊んだあの頃。
ネズミの出て来る穴を一日中覗いていた猫達。
外から取って来たネズミを自慢げに見せに帰って来た猫達。
その度に机の上に飛び乗り「もう判ったから、外にお行き」と叫んでいた私達。
車が増えて来てから事故が多くなり、外に出せなくなって来た頃のあの憤り。
人間と一緒に食事を作っていて当たり前だったあの頃。
栄養だとか、何を食べさせなくてはいけないなんて縛られない、あるものを食べさせ足りなければ自分で補っていた犬や猫達。
逞しかったな〜
猫は老衰、犬でもフィラリアにかからなければ15〜6年は生きてくれた。

今は野良猫の存在すら認めないから、ネズミが都内で物凄い勢いで増えて来ている。
自然のサイクルが人間によって壊されて来ている。
自然が少なくなり生きていけなくなったハシボソカラス、それでも頑張って都会で生きているハシブトカラス、カラスは益鳥だと言う事を忘れている人がいる。
増え過ぎたネズミを餌にするのもカラスだ。
ネズミにとってはカラスの捕獲、処分は助かるかもしれない。
その分、ますます増えて行く。
食物連鎖系が人間の手によってどれだけ破壊されているか。
ゴミにカバーをかけるだけで、カラスは減った。
食べ物が減れば、これも自然淘汰でカラスも減る。
ゴミの出し方を人間が気をつければ良い事なのだと思う。
魚でもネズミでも亀でも繁殖する数が多いものは、他の動物の餌となる事が考えられている。
それを食べても滅びない数産んでいると言う事になる。
大人迄育つ事が出来た子は強く賢い子だ。
子供の数が少ない動物、成長する迄に時間のかかる動物は、自然界ではそれだけ強い所に位置している。
その自然のサイクルを人間が壊して行く事で、強いはずの動物が生き延びるだけの餌を捕れず滅びて行く事を、今度は人間は救えない。
大鷹など雛を育てる場所を失い、餌が無くなり、滅亡して行く動物達が今後もどんどん増えて行くと思う。
それを今度は希少だから保護しようと躍起になる事の繰り返しを、人間は時代を超えて行っているような気がしてならない。

命を救うと言う事はそれが野生であろうが飼っているものであろうが、同じ事だと思っている。
動物は自ら死を望む事は無い。
例えば年老いた象が群れから離れて死に場所を探す、それは自ら死を望むのでは無く、死を受け入れ、群れに迷惑をかけないよう行う行動だから。
動物は命を粗末にはしていない。 誰にも頼らず生活している。
時には怪我をしたり、弱っているものもいるだろう。
それら野生の動物が怪我をしたり弱っているのを見た時、助けたいと思う心を持っている人間は普通だと思う。
野生は弱れば殺されたり死ぬものだから放っておきなさいという考えも世の中にはある。
怪我をしたり弱っている動物を助ける事は自然に反しているから放っておきなさいと言う人もいる。
私はそれは人間の考えだと思う。
というより、それを放っておける人間が増える事を悲しいと思ってしまう。
助かるか助からないかより、助けたいと言う心を持っているか持っていないか、怪我をしている動物を無視できるか出来ないかと言う事だと思う。
野生とか飼っている動物とかの区別はいらないと思っている。
可哀想と思う心が大事なのだと思う。
その心は育てようとしてもそうそう簡単に育つものでは無い。
小さい時から、感情を豊かに育てられた子に生まれるものかもしれない。
いたわりや愛情が無ければ、そのような心は育たないかもしれない。
その心を持った人間が増えれば、そのいたわりや愛情の感情を非難したりする者は居なくなるだろう。
例えば落ちたスズメを一羽助けた事で世の中の自然のサイクルが壊れるのなら、何万羽というカラスを人間の邪魔だと殺す事は自然のサイクルに対してはどうなるというのか。
例えばメジロを捕獲して売る事を罰する為に野鳥を捕獲してはいけないと言う事と、怪我をした野生の動物を保護する事とを一緒に考える事ができるだろうか。
捕獲と保護は、文字も違えば内容も違う。 何かを保護するのに回りに対して気を使い、命を守るのに罵倒されたりする。
これらの事をおかしいと思わない人間が増える事が、実際にはおかしな事なのだと思っている。
都会は孤独だとよく言われる。
隣の人は何をする人ぞ、とあまり関心を持たないで生きていける。
それが都会の良い時でもあるが、困っていても知らん顔をして通り過ぎて行く人が多いのも悲しい。
昔ある駅の側で倒れた老人が居た時、誰も知らん顔をして通り過ぎて行った。
大声で駅員を呼び助けてもらったが、本当にあの時はこの人達は何なのだろうと恐くなった。
倒れた老人を見て、声もかけないで通り過ぎて行く人たち。
そういう人に限って、それが自分の親だったら回りは何もしてくれなかったと文句を言いそうだ。
人間でさえ見捨てて行くのだから、動物に対してはさらにそうだと思う。
そのような人間ではなく、小さな命を大事に助けてくれる人達が私は大切だと思っている。
その心が地球を救うと思っている。
壊す人間より救う人間が半数を越えれば、地球も生き延びられるかもしれないと。
壊す事は簡単でも、元に戻す事はとても時間がかかる。
自然はなおさら時間がかかってしまう。
木一本にしても、切るのは数分でも、育つのは何十年もかかるのだから。
あ〜、少し飲み過ぎたかな、、、



これから涼しくなって行く、その頃が何とも言えず好き。
何となく寂しげで、でも自然は紅葉して来て色彩鮮やかになり、動物達は寒さに備えて準備に忙しくなる。
自然に対して何かを備えるという事も好きだ。
人間は自然を時々忘れている。
季節の変わり目をしみじみ感じる事を楽しみたい。
一分一秒の時間に追われる事を忘れたい。
地球の、宇宙の時間を感じたい。
無限の時間のほんの一部にいる時を楽しみたい。


カラス

動物を見ていると何時間でもあっと言う間に過ぎてしまう。
病気の子でもそうだが、まず手許に来た時には一日中その子を見ている。
それによって、その子の癖や性格、今の気持ちや状態を知り、その子と対応して行く。
だから新しい子が来ると大変だ。
今一番新しい子はカラスの子だ。
雛のうちに巣を壊され、猫に襲われてしまった。
まだ歩く事もおぼつかない時に人間に世話をされた子が野生に戻るのはなかなか難しい。
野生に戻しても、信じた人間に殺される率がかなり高い。
でも、外に出てしまった時に一羽でも生きていけるようには育てておかなければならないと思っている。
でも、東京では車も恐いし、都の職員も恐いし、ましてや近所のおじさんもおばさんも恐い。
その人が何もされていなくても、カラスが居たと言うだけで巣を取れの、カラスを殺せのと言われてしまう。
カラスの動作を見ていると、あれほど賢い鳥がペットとならなかった理由は判る。
愛玩鳥ではなく、自然の中で逞しく生きて行く鳥だと思う、鷹等の様に。
しかし、しぐさはことごとく可愛い。
賢そうでドジであり、考えているようで間が抜けている。
何とも愛嬌のある鳥だと言う事をつくづく思う。
今、せまい部屋の中で生き方を学んでいるが、私はカラスでは無いので教えるべき事の億分の一も教えられない。
それでも、先祖代々そうであったのであろう、カラス特有の色々な癖、生活の知恵をちゃんと持っている。
人間が邪魔をしなければ生きていけるであろう動物を、人間が野生から引き離し、勝手にまた野生に戻れは言えない。
安心して野生に戻せる地球は来るのだろうか、、、


カコタン
小話1

カコタンは今換羽に入っている。
おでこのハゲが増えて来て、鼻を隠している長い羽も抜けて来ている為、鼻孔が丸見え。
左右の鼻孔を隠す羽の部分も禿げているから顔中おもしろい。
大事なチョンチョリンは換羽後も無事だろうか???
ちなみにカコタンはバナナが大好き。


花ぼたん

今夜は徹夜σ(^-^;)
チャイナ服の装飾品、花ぼたんを作っている。
出来上がると綺麗だけれど、売っているボタンは何であんなに安く出来るのだろうと思うくらい大変、でも楽しい。


Mac

Macでホームページを作るのが大変と言う事を知らなかった(^^ゞ
何をしようとしても、本の段階からMacを探さなくてはならない。
挙げ句の果てがムービーを載せたくて、ただ今苦戦中!!
でも、根性で方法を見付けたぞー、その内小さくなったムービーでサフィールやカコタンを載せるんだ〜


2/3 命

命は砂のようだと何回思った事か。
いくらすくっても指の間からこぼれていってしまう。
予想出来る時もあれば、突然別れが来てしまう事もある。
長く苦しむよりは、短い時間でお別れした方が良いのだろう。
でも、別れは突然来ると、残るのは後悔ばかり、、、
寂しさも後からどんどん湧いて来る。
それでも、別れはきっと突然の方が去っていくものは辛くないかもしれない。
残ったものが辛い方が、去るものが辛いよりいいだろう。
辛さは時間がきっと解決してくれる、、、それを信じてまた辛さを耐え忍ぼう、、、


2/15人生

仕事柄、どうしても毎日命の問題を避けて通れない。
それでも、温かい心に触れる時は死というものでも耐えていける。
その死が心の醜い事が原因で人々にさらされた時、憤りと悲しみを感じてしまう。
人間程、命を粗末に扱ったり、勝手に奪ったり、わざと心を傷つけるような方法で殺したりする動物はいないのではないだろうか。
自分の言い分を正当化して、他人に害を与える事はいけない事、誰にもそんな権利は無い。
例え一国一城の主人であっても、自分を神のような存在にして,他人の自由を奪う権利も無い。
自分がされたら嫌な事は、他人にしてはいけない。
どんなに頑張ったって、地球時間、宇宙時間で考えたら、人間の一生なんんて埃程にも存在価値は無いだろう。
ただ、今この時を生きている時間、空間が無駄にならない生き方が出来たなら、それで充分だと思ってしまう。
他人に迷惑をかけず、少しでも喜びを分け合えて、少しでも悲しみを分け合えて、知り合えて良かったと思う友人が持てたら、それでもとっても幸せだと思う。


遊び

パソコンをしていると、カコタンは退屈だから遊んでもらいたくて、色々と作戦を企てる。
犬がボールをくわえて来て、あそぼーあそぼーと誘うのと同じである。
こちらが遊ばれている事は完全に判る。大事にしているものを見つけると、そーっと忍び寄って来て、さっと取っていく。
それをすぐ側で取られないようにしながら「欲しかったら取リ返して御覧」とばかりに誘う。
たまに取ったものをわざとちょっと隠して見る。
「ん?そこに隠したな」とみると、「見付けたな、違う所にしよーっと」という感じでまたくわえてしまう。
知らん顔をすると完全に自分の存在を強調しに邪魔100パーセント作戦に出る。
目を向けると、「しめた」という感じでまた誘いはじめる。
獲物を持っていても、腕を差し出すと条件反射で乗ってしまう。
獲物は私の目と鼻の先になる。
「ちょうだい」とくわえている物を取ろうとすると、磁石の陰と陽のように顔を動かして決して取らせない。
その動作に思わず笑ってしまう。
「隠すぞー、隠すぞー」と誘う。延々ニ時間三時間としてくれる。

戦いつかれて寝た時だけ、ゆっくりパソコン打てるのだ、、、




6/4
輝き

スパンコールって遠くから見るとキラキラしていて華やかなものだと思った。
動く度にキラキラする。華やかな席には欠かせないものなのだろう。
でも、普段は全く使う時はないものだと思う、もし付いていたら私は恥ずかしくて着れないと思う。
でも舞台ではちっともおかしくない、不思議だな〜
ビーズもきらびやかだけどスパンコール程には目立たない。
大きさにもよるのだろうが、近くで見ると綺麗なのはビーズかな。
誰が発明したのか調べてみよう。

6/12
色々


今日、大好きなサフィールに会いに埼玉の本庄に行った。
駿は利根川の土手沿いにある。外乗は土手である。
駿にはタラちゃんという可愛い犬がいて、外乗には一緒についていく。
何日か前からタラちゃんは気付いていたらしい、そこに何かがいる事を。

今日は朝、駿から電話が入っていて、土手に小犬が三匹捨てられていたのでその子の貰い手も見付けて欲しいと言われていた。ひょっとして帰りは小犬三匹といっしょかな〜と思いながら出かけた。
駿に着くと小犬と御面会、可愛い三匹だ。
目もまだ濁っているうちに捨てられたらしい。約倍の大きさになったと言う。
それでも全長二十センチくらいだろうか。
貰い手探しの最中、外乗に行っている人から電話が入った。
タラちゃんが子猫を見付けたと。
一匹はカラスが連れていくのが見えて、もう一匹は頭しか残っていなくて、でもまだいるみたいだと言う。
先生と探しに行くと、道のまん中にゴミのようなものが落ちている。
近付くと子猫が雨でビチョ濡れで居た。
その子を抱こうとするとすぐ横にゴミのように見えてたものがもう一匹の猫が倒れているのだと分った。
死んでいるから道の端に置いていこうと先生が持ち上げると微かに動いた。
まだ息がある、連れて帰ろう。
タオルで拭いて温めながら帰った。
一匹は何とかなりそうだが、倒れていた子はわずかに息をしているが瞳孔は開いていて、頭も傾斜していて助かりそうには無い。
駿に戻って、小犬に使っている哺乳ビンがあったのでそれでミルクを飲ませると一匹は夢中で飲んだ。こちらは大丈夫だ。
もう一匹は既に飲み込む力もなかった。それでも身を守ろうと必死で動く。
冷えて濡れた身体を温めているうちに落ち着いてきた。目を開けたり閉じたりしていたが、眠りはじめた。身体が温かくなった頃手の中で息を引取った。
寝ているのかも判らないくらい静かな最後だった。
もう少し早く助けられていたら、、、悲しかった。
駿の庭に埋めた。小さい亡骸だった。
必死にこの数日兄弟で頑張ったのだろうと思うと、捨てた人間への憤りが収まらなかった。

土手に捨てると言う事は、拾ってもらう事は考えていない。カラスの餌にでもと考えたのだろうか。捨てるなら、何故子供の命を粗末にしないように避妊しないのだろうか。
何所にでもよくある話であろうが、それが怖い。
平気で捨てて、捨てられた子猫や小犬の末路を見ないでどう考えているのだろうか。
捨てる時に死んで良いと思っているのだろうから、そういう人は何も考えないのかもしれない。
くわえて行かれた兄弟達をこの子達は恐怖で見ていたのだと思う。
拾った時の目つきは先生がこの目じゃもう駄目かなと思った程に恐怖で固まっていた。夕方、落ち着いた頃に先生が見たこの子の目は穏やかでこの数時間でこんなにも変わっていくの かと吃驚されていた程だ。

小犬もやはり目が開くか開かないかのうちに土手に捨てられていた。
助けられなければやはり他の動物の餌になっていたであろう。
自然界では当たり前の事、生きる為の手段であるから、人間以外の動物は誰も悪く無い。
動物達で我が子を殺させる親はいないから、必死で守って守り切れないのは仕方が無い。でも人間はわが子でも殺すし、他人の子でも殺す。自分の家で生まれた猫や犬の子でも平気で捨てる。

先日ある所で「獣医師は実験動物や解剖をする」と言う事で他の方から意見があったが、この人のような考え方の方達が「捨て犬、捨て猫」をする人についてはどう考えているのか聞いてみたい。
年間人間の意志で処分されている動物の数をどう思うか聞いてみたい。
動物を助ける為に通る厳しい現実を、自分に十字架を背負わせながら生きてきた人間に対してどう思うか聞いてみたい。
獣医の勉強が最もらしい嘘だとか、訳の判らない伝統だとか言う人の意見を聞いてみたい。
都知事が年間何万羽ものカラスをゴミを荒らすからだという理由だけで殺しているその事に関しての意見を聞いてみたい。

獣医の勉強の中で確かに命を奪う事はある。動物からすれば殺しである事は事実だ。
どんな理由も言い訳も通じないし、そのように心を処理したくない。
重い十字架として一生背負っている。動物が嫌いな人間が動物を殺す事より、動物が好きな人間が動物を色々な事情であれ命を奪う事の方が、どれだけ辛く悲しく耐え切れない事かを知 っているのであろうか。

小学校の5年生の時に書いた「捨て猫、捨て犬ホームを作りたい」という考えは、小さい時から捨てられて鳴いていた子猫や小犬を見てきたからで、その頃からそのような事が無ければ、だ れもその悲しい鳴き声を聞かなくてすんだであろうに、、、
どれだけ夜中に鳴く子猫の声に心が悲しみでつぶされてきた事か。
捨てる事は殺す事と一緒だと思う。
動物が好きな人間が苦しみ、捨てる人間は平気で居られる。
殺すと言う意味が、無駄に殺すのと、必要と思って勉強する為に犠牲にする事と、命を奪う事では全く一緒だが、それでも同じ次元に置いて欲しくは無い。
犠牲にした子をどれだけ思っていたのかを、実際にその場にいる勇気を持たない人間にとやかく言われたく無い。どれだけの気持ちを持って接してきたかも知らないのに、安易に非難して欲 しく無い。
助ける事はわずかしか出来ない。それでも助けたくて力と経済の許す範囲で出来る事を必死でしている人間に対して、簡単に嘘だとか訳の判らない伝統だとか言って欲しく無い。そんな事で 命を奪える訳が無いでは無いか。

7/17
言葉


私は人間の言葉と言うものがあまり好きでは無い。
話す事も書く事も上手く無いからかもしれないけれど、、、 人間はお互いの意志の疎通を計る為に言葉と言う便利なものを持っているはずなのに、その言葉が通じ合わなくて、そ れ以上に心すら通じあえなくなり、さらに反感を持つ事さえ出て来る。
動物とだと声もいらない、目を見ただけでお互いが判りあえる。心が通じ合える。
最近犬や猫の言葉を機械で判らせようとするものが出てきたようだか、ちょっと情けない気持ちがする。 自分の飼い猫や飼い犬の気持ちが、機械を通さないと判らないのかと悲しくなってしまう。
遊びで冗談として、あるいは話題の一つとしての試みではあるのだろうが、、、 これから先、人間が動物の言葉を話せる様勉強してみたらどうだろうか、、、
地球上では人間が主だとされているから(人間によって)、動物が人間の言葉を話さないといけないのかな〜?
どうせ話すなら、良い方に解釈していけないものだろうか。
人の話す言葉を全て良い方にお互いが理解したら、どれだけ心が平和で居られるか、、、
でも、そんな事をしていたらこの世はそれこそ身ぐるみ剥がされて、路頭に迷うのが現実だろうな(-。-;)
今甥っこが手話を本格的に勉強している。 一度社会に出て、そこで多くの聾唖の方達に接する機会を持ち、手話を勉強する道を選んだ。
私も昔独学で手話を勉強始めたが、すぐ壁に付きあたってしまった。とても無理だった。
甥っこが勉強しては教えてくれる。言葉を話さなくて意志が通じたら、世程そちらの方がすごいと思う。猿と手話で話す試みもあるようだし、授業に手話を入れたら良いのにと思う。 遠くにいても声が届かなくても、通じ合える。
一つ寂しい話を聞いた。聾唖の方で、健常者に差別を持っている方がいるそうだ。 健常者とか聾唖という言葉自体も私は好きでは無い。どちらもがお互いに歩み寄ろうとすれば良いのにと思うが、健常者に余計なお節介とでも言うか、親切の押し売りのような気持ちを 持って欲しく無いと言う事だそうだ。
親切を押し売りする事もおかしいが、こちらが素直な気持ちで何かお手伝いをと思う事もあるだろうから、お互いに助け合えたら嬉しいと思う。 どちらもお互いの立場を理解し合えればもっとお互いが知り合えて、仲良く付き合えるのにと思ってしまう。
見た目で判断する事等もおかしいと思う。 見えない部分に本当の自分をしまっているだろうし、それがすごく歪んでいても誰にも判らない。見た目では無い、見えない所が怖いし、そ ちらの方がずっと大変な事だと思う。
言葉では無い、心が見えて通じ合えれば、世の中の半分以上の争いは無くなるのでは無いだろうか。
でも、どうしても通じ合えない人と、無理に通じ合おうとする必要も無いと思う。半分は同じ意見で、半分は違う意見で世の中はもっているのだろうから。 親は選べないが(自分の親には感謝しか無いが、自分の息子には選べないと言われていそうなので)、友人だけは自分で選べるのだから、自分と合った友人を選んで短い人生楽しい時間を 過ごしてゆきたい。

9/24

ピンク

小さい時から手芸は好きだったので何でも手を出していた。
動物が好きだから獣医になった。
動物の絵を描きたいと通信で勉強した。
どれも一見結びつかない事だけど、根本に何時も動物がいる。
羊を飼って、羊毛を紡いで、セーター等に動物を編み込みで入れたい。
これが皆繋がってくるでしょう(^^)
人間は出来る時に何でも挑戦しておいたほうが良いと思う。
チャンスは掴む時に捕まえないと逃げてしまう。
出来る時にしておかないと、したい時には時間がなかったり、お金もなかったり、環境が許さなかったりするかもしれないから。
今、ピンクレディーさん達の衣装をちょっと手伝っているけど、たまたまちびちゃんのお父さんの関係から そうなってしまった。
これも動物関係からだけど、滅多に見れない世界をちょっとだけ覗かせてもらっている。
夢を売る華やかな世界。どの世界でも生きていく事は大変な事だけど、周りも本人も大変な事だけど、端から見せてもらう時って綺麗で楽しい(^^)
この所、耳の奥でずっとピンクレディーの歌が鳴っている。ふと気付くと歌っている(^^ゞ
でも、実際には我々より下の年代の方達が夢中だった時代だから観客層はその辺りが多い。
ピンクレディーが歌い出し、踊り出すと、観客は皆同じ動作で踊っている。ファンって嬉しいものだなーって感じる。どれだけ経っても現役時代と同じに皆で昔に戻っている。
これが青春だってすごく感じるし、この時間を一緒に見せて貰えたチャンスも嬉しいと思う。
それもこれも何にでも手を出していた事が、結局役立っていると言う事だから、チャンスがある時には自分がしたい事があったら、若いうちにどんどん苦労してでもしておくと良いっ て言いたいんだ〜。

11/25

朱鷺王

動物達と知り合う切っ掛けは職業柄どうしても病気や怪我などが原因の時が多い。
朱鷺王君も元々は病気の相談からだった。
それも遠く離れている山口県だった。
たまたま山口大学の先生を学会関係等で知っていた事があり、連絡のやり取りが始まった。
遠く離れている為、診て判断する事も出来ないので、あくまでもお話や写真、テープに音を入れてもらったりしながらの判断しか出来なかった。
それでも地元の先生が診て下さる事などもあり、その後数年便りの無いのは良い便りだという日々が過ぎていた。
今回連絡が入った時、やはりすぐにはいけない状態だったが、年も年なのでとても気になった。
それでも飼い主のA子さんは覚悟を決めながらも最後迄苦しみを少しでも少ない状態で送らせてあげたいという気持ちと、生きる為だけの苦しい治療はしたく無いという考えとを持っていらした。
大動物、しかも馬の場合、出来る事はどうしても限られてくる。
その中で朱鷺王君に何をしてあげる事ができるだろうか、何をしてもらいたいと望んでいるのだろうか、それを考え尽くした看病だったと思う。
広い地球上で一頭の馬がこれだけ愛されて、最後迄命と向かい合って過ごしてくれる飼い主さんがどれだけいるだろうか。悔いはどんな事をしていても残るだろうけれど、それでもここ迄し てあげられる飼い主さんはそうは居ないと思う。朱鷺王君は最後迄幸せだったと私は思ってやまない。
朱鷺王君本当にA子さんに育てられて良かったね。朱鷺王君の感謝の気持ちはA子さんにきっと伝わっているね。
山口で過ごしたほんの数時間だったけど、のんびり草をはむあなたの姿は僕幸せだよって私には見えたよ。
僕のお姉さんって素敵でしょって聞こえたよ。
お姉さんにブヒブヒ言ってりんごを貰う姿にサフィールがだぶったよ。
あなたに会えて嬉しかったよ。
A子さんは寂しくて仕方が無いと思うけど、朱鷺王君が何時も見守っていてくれるよね。
ついでにこのおばさんも時々見ていてね、ちょっと危なっかしい所が増えて来ているからね。

A子さんから「朱鷺王」 君の追悼集を贈って頂いた。
愛の記録である。(K子さんのお顔はお茶犬君でカバーしておりますのであしからず)

1/25

しつけ

子犬の躾は親犬がするのが一番良い。
でも捨てられたりした子はそれを飼って貰った所でするしか無い。
駿君は寒地がしてくれた。
寒地は育った所が犬だらけの所だったので、自分自身が一番新参者だった事もあり、上下関係や犬の世界の掟等立派に犬の教育を受けていた。
その為、全ての子犬の躾は今迄全部寒地がしてくれていた。
今回、駿君はまだ大人になり切っていないがぽんちゃんの所に遊びに来てくれたのでちょっと教育をお願いしてみた。
何故なら、寒地君はぽんちゃんが女の子のためか、駿君の時と違いまるで甘くて何でも許しちゃう〜みたいで役に立たないのだ(^^;)
ぽんちゃんは我が侭娘プラス噛み付き癖がちょっと幼い時の体験からか持っているので恐い物知らずの所がある。
駿君改めHAL君は初めての年下の教育だったが、本能的にどうしたら良いのかは判っている。
でも力がまだ及ばない所が見えて、それがまたたまらなく可愛かった。

向かって左がHAL君右がぽんちゃん

ちょっと初めての躾係にはぽんちゃんは荷が重すぎたかも知れない。
ぽんちゃんは私もちょっと手こずっているくらいだから(;^_^A 
ま〜元気の良いぽんちゃんと優しいHALお兄ちゃんとの根気競べだと思えた。
どちらかというとHAL君頑張ってという声の方が多く出た気がする(^^ゞ
掲示板にも書き込みがあったが、家に帰ってHAL君かなり疲れたようで本当にありがとうと感謝している。
これに懲りずに、またじゃじゃ馬娘の教育に来てくれると嬉しいな〜
でも、躾方をちゃんと行っていたHAL君を見て、とっても嬉しく思ったし、成長が嬉しかった。
それもこれも今の家族の方達の愛情一杯の育て方が実を結んでいるのだと思えて今日は一日嬉しい。

3/31

法律

法律は人間が作った物だが、これはどんどんおかしくなっている様な気がする。
所詮人間の能力はこの程度だと言う気持ちが日に日に強くなっていた。
でもこれが無いと歯止めが効かないのも人間の悲しい所だろう。
法律とは昔の遠山の金さんみたいに誰から見ても正義の味方という番組が流行るように、一般的に正義が勝って悪が滅ぼされると思いたいものだと思う。
でも現実には全く違う事が多い。だからこそ正義の味方みたいな番組が流行るのだろうとも思う。
今の法律は弁護士が言葉を操り、嘘も方便と用い、数をこなす為には結果等、正義等、人間の道等どうでも良い事になっているようだ。
何が望みで裁判を行うか、弁護士に頼む時には問題が幾つもあってはならない。
何が一番希望なのかを聞かれるものだ。
一つだけが通ればそれで任務は終わりと言うのが当たり前だそうだ。
一つに幾ら費用がかかる、幾つもを一回で通しては儲からないとでもいうことなのだろうか。
裁判官もピンから切り迄あるようだ。
時間が無いから審議等どうでも良い、早く次にかかりたい、だから一つ一つ等内容すら把握していなくても平気である。
一人一人の言い分等聞いていたら切りが無いのは判る。
個人個人の説明等聞いていたら一生かかっても終わらない事も判る気はする。
でも双方の言い分を聞いて判断しなければ裁判の意味も無いだろう。双方の言い分であって、片方を重視する事も許されないが、言った方が勝ちで、言わない方はただ損をする事も多い。
どんなに言いたくても、なかなかそれをさせない、言わせない裁判も多いと感じる。
人間の能力の判断と言うより、色々見ていると人間はお金での判断が一番優先しているように思える。
悪い事も(良い事では少ないように思える)突き詰めて調べるとお金が左右している事が余りに多い。
お金も人間が作ったもの、法律も人間が作ったもの。万能ではない。
どちらも悪用する人達は強くて、利用され損をする方にいる人達は弱いと感じる。
弱きを守り、強きを挫くと言うのは現実の社会では殆ど見られないと思うこの頃である。

4/1

事故

男の子は良く五歳迄無事に育てば大丈夫だろうと言う事で「七五三」のお祝いがあると言われている。
その頃迄は幾ら言ってもジッとしていない、言う事は聞かない、危ない事ばかりしている、怪我が耐えないものだ。
勿論大人しい男の子だっているから全てがそうだと言うのでは無いが、そう言う事が多い。
女の子だってジッとしない子や、危ない事をする子もいるから勿論油断は出来ないけれど、「七五三」のように昔から伝わっている行事や諺にはやはり長年の何かしらの意味があるの では無いだろうか。
そこ迄無事で来れた子供を祝うと言うのもあるだろうが、本当はそこ迄無事に育てたと言う親のほっとした気持ちを現わしてもいるように思える。
子供の事故があると良く責任は何処にあるかと言う事が大きな問題になっている。
2度と起きないようにする為には必要な事だとは思う。
しかしもし子供を事故で失ったとした時、一番辛くもあり悲しくもあるだろう親が、一番自分達を責めているであろうし、それは親の責任だと言う事を一生背負って行かなければなら ないのだと思う。
何処が責任を持ってくれても、責任の擦り合をしてお互いが責任を取ろうとしなくても、親は一生後悔をして自分を責めて行くのだと思う。
事故が起きた事情も色々あるから一概には言えないけれど、もしそれが自分の子だったらという気持ちを誰もが持てたら、責任の擦り合も無いだろうし、何処の子でも自分の子供のよう に気をつけてあげたいし、危ない事をしていたら怒ったり、注意をしたりしてあげたい。
危ないからと注意をすると人の子に余計な事をと怒る親も増えている。注意をしてくれて有難うと言う親には滅多にお目にかかれない。沢山の人がいたら沢山の目が幼い命に向いて、 事故から守れる事も多いのでは無いだろうか。
それでも誰にも助けられない一瞬の時間の隙間があるのだろう。
私は良く子供達に危ないよとか、こういう事をしてはいけないよと言う事を言ってしまう。
知っている子なのかと側に友人等がいると聞かれるが、全く知らない子に対してもしてしまう。
子供に限らず、大人や老人を見ても危ないとか大丈夫ですかと声をかけてしまう事が多い。
子供を守れるのは大人だと思うから、どの子も自分の子供だと思って、沢山の目で見守ってあげたいと思うし、それによって危ない事から守れるかもしれないのだから、恥ずかしがらず にして欲しい。
幼児の時にはやはりそれを特に心掛けてあげたいと思う。生意気な年頃になる迄は皆の目で守ってあげなくてはと思う。

9/21〜
慢性硬膜下血腫

去年の九月二十日、父の89歳の誕生日でしたが、その翌日入院、診断はこれでした。
二ヶ月ほど前に転んだこと無かった?と先生に聞かれましたが、この所良く転んでいたので転ばぬ先の杖と言って嫌がるのを室内でも杖をつくようにしていました。
それでも数回部屋で転び、自分では立てないので必ず転んだときは判っておりました。
あれかな?あれかも?思い当たるものは沢山ありましたので、すぐに納得。すぐに血腫を治療しましたが二週間入院だなと軽く言われました。
血液を抜いたらすぐに元気が戻りましたので確実にそれだと判りましたが、なんせ年が年なのでのんびり治しましょうねということになりました。
でも最高五回抜いた人がいるよと言われましたが、父は三回抜いても回復が思うように行かないのと、治療方針がどうしても納得できないことがあり、ちょっと先生と揉めまして、私引き取 って来てしまいました。
朝六時から日によっては夜の九時過ぎまで、母が気になりましたが心配しながらも、約40日入院しましたので、その間病院で父の世話をしていて色々感じるものがありました。
三日ほど泊まりもありまして、その時にも色々感じました。
結局バルーン(尿カテーテル)を付けたままの退院でしたが、家に帰ってから数日で父は回復してきました。
言葉も出るし、手の力もどんどん戻ってきました。
もともと父は横にあるものも縦にしないで母を呼ぶような、何でも楽したい性格ですから食べさせてもらってもニコニコ。
その笑顔がとても良いと世話に来てくださる先生、看護婦さん、ヘルパーさん、リハビリの先生、皆さんにホッとするねと言われます(^^)。
性格が穏やかなのも昔からですから良かったと思います(^^)
母は何回も心臓の手術で入院しましたが、父は大の病院嫌い、定期健診だけでも硬くなって血圧まで影響しそうな人間なのでなおさら一人では置いておけませんでした。
父は今は何でも言えますが、入院したときは口や体が不自由な形と一緒になり、看護婦さんたちの世話が本当に大変なことは判りますが、家族も家の事やら費用のことも考えれば無理は言え ない事も判りますが、あちこちに大きな危険があると思いました。
家族を知る人はやはり身内が一番なのだから、先生や看護婦さんに任せるだけでは危ない、何か欠けていると思えました。
誰が悪いと言うのではなく、誰も悪くは無いのですが、でも欠点が多くて怖いなと思いました。
人間の病気でも言葉や意思表示が出来ない方たちがいたとき、私はそれでも動物より人間のほうが判る筈なのにと言うことを感じました。
でも、動物を扱っている人間はきっと身内が意思表示が出来なくなっても、対応が人間のお医者様より看護婦さんよりきっと出来るし、気持ちの理解が判り易いのではないかと思いました。
人間のお医者様に怒られそうですが。意思がある人間でも危ない事をすれば手足を結わえてしまいます。
でもどんなに状態を把握出来ない病状の方でも、そのようなことが嫌だと言う意思がはっきり出てくるのです。
どうして動けないか判らない方は「どうしても動けないですが助けてください」と一日中声を出していたり、解こうとして動かない筈の手足で暴れて危ない事をしていたりする。
動物だったら話しても判らないから工夫をしますが、押さえ込もうとすれば暴れるのが常です。人間だってそうですものね。
父は結わかせたくないので、絶対に私がついているからしないでくださいと初めに断りました。
そして点滴を外しそうになれば本人が嫌がらない方法を考えて外せないように工夫する。
その工夫を若い看護婦さんは見ていて、他の方に真似させてもらっていますと話しに来て下さったり、ついつい病院でも看護婦さん達に母親代わりをしてきてしまいました。
私が言うのもなんですが、大事な家族、それが人間以外の動物たちでも、もし病気になったら守れるのはあなただけです。
先生を恐れず、遠慮せず、疑問はぶつけ、納得いくまで頑張る、これが大事だと思いました。
父はのんびりしていて、毎日の生活は「朝寝して、夕寝するまで昼寝して、時々起きて居眠りをする」という生活を気ままに送っておりましたので、今ものんびり同じような生活を送ってい ますが、マイペースが一番だと思っています(^^)
桜が咲く頃から外に気分転換に連れて行こうかと思っている今日この頃です。

05/8/14
在宅介護

在宅介護を御願いしてからもうすぐ一年経とうとしている。
六月に入ってから急に父の飲み込みが悪くなり、どうしても上手く飲めなくなってから在宅の先生に水分が上手く取れないと脱水してしまう為点滴を御願いした。どうしても飲み込み が上手くいかない場合の事も色々お聞きした。
六月からはお風呂も入れられることになっているくらい治ってきていたので、ちょっと後戻りではあるが、年齢的にも無理はしないで行こうと思っていた。
そんな時だったので、先生が入院を勧めたとき、そのための在宅なのだから家で見て欲しいとお願いしたが在宅にはこのような場合ポートか胃ロウを作らないと無理と言われ入院し た方が良いと言われた。入院が必ずしも良いとは限らない事を経験しているのでなかなか納得できなかったが、それでも危ないと言われ入れる事にした。
それでも家で見れないということが、在宅の意味と矛盾しているように思えて仕方なかった。
結局、病院へ行けば年齢的にも見た目からも、義務とは判っていても最初から死ぬときの話から始まった。
何でも良いから肺炎を治してくれれば良いと思って、それでも自分で看ないと退院してきた時に様子がつかめないといけないので、最初から自分が食事など全て見ますということ は了解してもらい、何しろ家に一日でも早く連れて帰って家でみたいとお話した。
肺炎は一週間毎の検査で良くなって行ったが、年なりの正常値でないものはいくら頑張ったって正常にはならないのだから、余り細かい事は言わないで良いと話した。
ここでも先生と一つ一つ話がぶつかったり、進まなかったりしたが、父を治す事に関しては一緒の気持ちなのだからとは思った。
六月末に近づいた時、退院してよいと話が来たので喜んですぐに退院する事にした。ポートも胃ロウもまだ良いんじゃないといわれ作っていなかった。
ところが退院の朝迎えに行くと、入院してから一番ひどいくらいゼコゼコしている。どうしたのかと夜勤の看護師さんに聞くと「三回夜中タンを抜いた」と言う。タンを抜くと言う 事は何時も鼻からチューブを入れ、気管の方まで入れる為その後の咳が半日以上取れないので、そのためかもしれないと思い、何しろ退院した。
在宅の先生はすぐ来て下さったが、そのゼコゼコを見て、治っていないと怒って検査材料を取って帰っていったが、翌日再入院と決めてしまった。
今回も我々家族は退院疲れもあるからせめて三日様子を見て欲しい、病院が必ずしも良いとは限らないと再三頼んだがそれどころではないと救急車を呼んでまた入院。
病院でもびっくり、在宅の先生は付いてきて下さって、担当の先生と長い時間話し合い。その結果、その病院はポートなどを出来る先生がたまたま居ないとの事だった。先に言って くれれば最初の入院からしなかったのにと思った。在宅の先生も今まで大丈夫だった病院なのでまさかそんな理由があろうとは思ってもいなかったらしい。それではここに居る意味がない ので転院ですねと言ったが、肺炎をもっとちゃんと治してきなさいと言われ其処に入れられた。
ここから一ヶ月、在宅の意味と、転院する手続きを取ってもそれが一ヶ月以上でも先に平気で伸びていってしまう事など、時間との戦いになってしまった。
最終的には、幸か不幸か先方が一杯で転院が出来なくて、転院する理由のポートや胃ロウの必要がなくなってしまったので、退院した。またもや今回は半ば強引でもあったが。
父は日頃の行いが良いからか、最終的には何時も良い結果が出てくれる。神様は居るのだなーと思える瞬間でもある。

06/1/4
病気治療

在宅介護も初めてなので何をどうしたら良いか判らないことばかりではあるが、二言目には入院と言ってすぐ入 院させる先生にはどうにも安心して任せることが出来なかった。
それでもこちらの意見を負けないで出していたら、怒って辞めさせて頂きますと言ってその場で辞められてしまった。
一応幸か不幸かと思いながらも心の中でホッとしたのは事実だった。
次に探す時は慎重にしなければと思ったが、ケアーマネージャーさんがこちらの意見も尊重して下さる先生を見つけてくださった。
3日寝て3日起きる父の状態からはやはり栄養が十分摂れないのでやはり胃ロウは必要という事になり新しい病院を世話してくださったら入院した日にすぐ手術して五日で退院できた。
前の病院のあの約十倍の日数は何だったのだろうと怒りより呆れてしまった。
幸いその後も良くなり在宅のお風呂には入れるまでになり、一年と一ヶ月と数日振りに大好きなお風呂に入った。
余りの気持ちの良さが父をぐっと眠くさせてしまい、丁度起きている3日の最中だったため口の中に沢山の唾液が出ているのが上手く飲み込めなくて気管に入ってしまい、母が 気が付いた時、父の呼吸が止まってしまっていた。
私は母が起きるとちょっとだけ眠って3日間の徹夜を補っていたので、丁度母と入れ替わった後だったため母は呼吸していないという事より、脈がまだあるからと私を起こす事 をためらったらしい。
それでも心配になり私の所に来て「ちょっと大パパがおかしいみたい」と言ったのですぐ父のところに行くと呼吸していない。意識も無く呼びかけにも反応しない。目は見開い ていて一方を見たまま動かない。
即人工呼吸、唾液の吸引、酸素マスクを付け母に救急車を呼んでもらった。
必死でしていた時にふっと呼吸が始まった。呼びかけにも反応し出し、ホッとした頃救急車が来た。
病院へは入れたくなかったので悩んだが、消防署の方が診て貰うだけ診て貰ってすぐ帰って来たら良いよと言ってくれたので、一度は診て貰おうということで胃ロウを入れた病院 へ行った。
すぐ帰れると思ったが、検査の結果症状には全く無かったが、肺に水が溜まっているという。
そのために検査入院してその原因を突き止めることになってしまった。
これも幸か不幸か水が溜まっていた事が分かってよかったけど、入院は長引いてしまった(最終的に水の溜まったのは栄養失調で吸収能力が落ちているからで、栄養をつければ良いと言 われたが)。
窒息で入院したのだが、水が溜まっていたためそれが入院の原因だと間違われてしまう事が多くこれはマイナスだった。
その間に病院から酸素が落ちてきて危ないと電話がかかり、もう年ですしねーなんて言われ、そうじゃなくて又窒息のなりかけだから吸引して痰を出さないと駄目になると言い聞かせ、 看護師さんと二人で人工呼吸と吸引の動作の繰り返しで数時間、やっと大量に痰が出てきて生還。
病院の責任で足に大やけどを負わされ、入院日が長引いてしまっている最中にもまた同じ事があり、それまで一日中介護に病院へ行っていたけど、泊まれない為夜中の診てあげられ ない事からの危険度が余りに大きく不安だったのでこのまま置いておくと命に関わると感じ、痰が取り易い様にと気切を入れることになった。
ところが今度はその気切の手術で失敗し気胸になってしまいまた入院が長引いてしまった。
しかも気胸になった部分が危険なところで、そこから感染している痰が漏れると命に関わる、そんな感染が起きかねないと言う事で、まめに痰を取ってそこに行かないようにするには 看護師には出来ないと言われ、泊まっても良いから付いていて欲しいと言われ、母のこともあるので悩んだが、母のためにも父を無事家に連れて帰らなければと思い、3日間泊まって介護した。
幸い感染は起きず、気胸も再発しなくて済んだ。四日目に今日も泊まってくれるかと言われたが、父の様子は一応落ち着いたので、母のほうが心配だったので帰ると言い、その日は帰った。
ゆっくり眠ろうと思った矢先大きな物音、すっ飛んで言ったら母が布団の上で転んで真っ青になっていた。
この時ばかりは父が帰る前に母の葬式が目に浮かんだ。
母は心臓に人口弁が二箇所入っていて、かなり身体は危ない状態を必死で保っている。
どこかを打ったり、切ったり、骨折したら命が危ない。
心臓のかかりつけの病院に電話を入れ、そこが遠いので近場で出血の有無だけをまず大至急調べた方がよいということになり、また救急車。
本当に幸いな事に布団がクッションになり、触ったかどうか判らないくらいでもすぐ痣になる母が何処にも痣が無く、内出血も骨折も無い事が分かり、尻餅ついいたため腰を痛め全く動けな かったが命にはかかわらないと言う事が分かった。
病院の先生も年だからこのまま入院すると歩けなくなる可能性が強いから家に連れてかえっても良いと言われ、一も二も無く連れて帰った。
次の日から姉が遠くから来るのでお昼間近くまで家にいて母の面倒を見て、姉が来たらすぐ父の病院へ通ったが、父の方の先生も家と病院の両方は大変だし、 私が父を連れて帰りたいと申し出たのでそれは大変だろうと思って言えなかったがそれで良いのなら退院に向けて考えようと言う事になり、病院の手落ちで長引いてしまった入院だったので、治 療はたくさん残っていたが在宅でするからとやっと家に連れて帰れた。
足のやけどと気胸の後なので、帰ってから二週間くらいは命との戦いのような毎日で姉が来てくれると二時間だけ寝かさせてもらってあとは両方に付きっ切りの毎日だった。
偶然去年の年の暮れもそうだったが、今年も両親は寝たままの年越しだった
人間の病院と動物の病院の違いなのか、その病院だけの問題なのかこの頃良く判らなくなっていることがある
今まで人間の病院で何時も先生と考えが合わず、それが何なのか、何がこのすっきりしない気持ちになるのか、何が先生との意見の相違なのか、色々考えさせられてきた。
私個人で考えるに、病気をしている動物が来た時、その動物の病気を治す場合、その子に合わせた治療をするのが当たり前だと思っている。
動物の場合自分の具合の悪さを自分の口からは言ってくれないからまずは飼い主さんから色々聞く。
それでも話を全部は信じない。何故なら動物が言いたい事と、飼い主さんが言っている事が合わない事が半分くらいあることが多いから。まずは飼い主さんから聞くが、我が家の場合 飼い主さんが居なかったり、費用がかかるなどの理由で安楽死を望まれたり、飼育放棄されてしまった子の方が多いのでその場合は動物自体から聞くしかない。
それには時間が必要で大体私自身が納得するまで3日ほどかかる。
その間は何時も一日中側で様子を見ていて観察している。そうでないとその子の状態を納得出来ない、出来ないと治療方針が決まらない、その子の性格や病状、それを自分が納得する まで把握する努力をする
それが自分に納得いった時に始めて動物たちと心を通わせ、信頼を得る方向へ向かえる。
病気の種類がどうであれ、治療法がどうであれ、その子が安心感を持ってくれて、信頼してくれる事でまず精神的に半分は治っていると思える。本当の体の病気はそのために安楽死を望 まれたり、飼育放棄されてしまうのだから我が家の場合治るようなものは少ないので現状を維持できればと自分に言い聞かせている。
それは個々の性格や状態で全く違うものなのだから、治療方針も違っていて当たり前の事だと思う。その当たり前の事が人間の病院に入院すると無くなってしまう。
一個体が例えば一つは外科にかかる病気だとしても、色々持っている子は内科もあれば産婦人科だってあるかもしれない。人間の病院では外科は外科の考え方、内科は内科の治療方法を 行うと言って一致してくれない。
其々の先生や科がお互い助け合ってくれるのならそれが本当なら当たり前の事だと思う。でも今まで幾つかの病院においてそうしてくれた事が無い。
口では内科なら例えば外科に聞きましょう等と言って、協力しあってくれるような感じを受けても、実際動いてくれない所ばかりだった。
幸い父は退院出来たが、入院中同室の方がお二人亡くなった。どちらも病気のためでそれは仕方ない事ではあるし、家族の方も判っている事でもあった。
そこまでは仕方ないと思う。でもそれまでのその方達への病院の接し方を見て、特にそう感じた事は確かなのだが、余命幾ばくも無いと判っている患者さんに対しての毎日の治療方針が 余りに帳簿上的、事務的、そんな感じがしてしまった。本人の最後を迎える時に、どうしたら安らかに行けるか、それを考えてあげて欲しいと他人事ながらかなり感じた。
しなくても良い治療、する必要の無い治療、する事でかえって苦しむと分かっている治療、それは良い方向に向かうものであるのなら良いだろうけれどそうで無いと判っていたらしないで あげてほしいと思った。でも病院はする。それは治療と言う意味ではすごく基本の事なのにどうしてあんな事をするのだろうか、死にそうな人が苦しんでいるではないか、何処に病人への愛があ るのだろうか、既に愛は持ち合わせていられないのだろうか等など、ある点では割り切れば分かる事ではあるが、分かりたくない事を目にしてしまう感じがした。
今病院を全く信頼できない。こんな感覚を持ったのは母の時には無かった。そこが特別なわけではない。あちこち行かされたが何処も「帯に短し襷に長し」で、基本は余り違いは無い様に感 じた。

07/12/2
今年ももう終わり

去年三月十五日父が永眠した。
桜が咲いたら車椅子でお散歩しようねと言って、ウンウンと言って、母と話しをして、ニコニコしながら眠ってそのままだった。恐らく父は今も寝ているつもりだと思う。
穏やかな苦しみの無い最後だった。「幸せ幸せ、今が一番幸せ」と言ってくれた言葉が一番嬉しかった。


その後色々忙しくこちらに書き込む余裕が全く無かった。
久しぶりに自分の家に来て、迷子で有名な所を直そうとしてこちらに来た。
今年はマートレットに子供が生まれマートレットスラート、愛称アンジェラと名前をつけた。
これが一つの大きな出来事。この子のお蔭で何回も遠野に行けた。

三菱の車のハンドルが急に利かなくなって、高速道路で180度向きを変え、追い越し車線から路肩に行ってしまった。
原因などどうでも良い。壊れた事実は変わらないから。修理の効かないいわゆる大破状態だった。車検の数日後に起きた。今度はトヨタにした。守ってくれたのは父と動物だとその時実感した。

そして今台風の影響を受けた動物を預かっている。これも大きな出来事。
災害が起きると何時も動物達はどうしているのだろうか、災害に合って自由の無い子は人間以上に生きていく力が奪われている。 
人間にも災害は初めての出来事であろう、動物だってそうなのだが、人間をまず救わなければ、動物だって生きていけない。
救いたくてもその手の伸ばせる範囲を超えている時、選ぶ力も無い。出来る事を出来るだけする、それで精一杯なのが現実だった。
たまたま珍しく東京に台風が直撃した。その少し前にロバの足が具合悪いという事で山まで診に行った家ががけ崩れを直撃してしまった。かろうじて人間も動物も命だけは無事だった。
ただ工房がつぶれ、その後もし又台風が来たら既に崩れた崖が又何処まで崩れるかの保障は無かった。自分に何が出来るか、落ち着いて考えた。ロバは無理、でも犬猫鳥なら数は多いけど何とかなる。
家が壊れたから建つまでは何ヶ月かかるか判らない。その間もし病院などに預けても費用は莫大にかかるだろう。何しろ数が半端ではないから。しかも死にそうな老犬が二匹居るという。
生半可な気持ちでは言えない事だ。考えに考えて引き取ろうと決めた時、先方に連絡した。その段階では長丁場も、命の問題も覚悟した。別れ別れて飼って貰えたらその方が動物には幸せかもしれない。
でも又引き取ると言う事があると分けてしまったら今度一緒にするのは大変な事になる。それは目に見えている。
預かってくれる家もあるかもしれない。でもアイス君の時のように、負担に思ってしまわれたら、可哀想なのは動物である。先は見えていないお話だから、人間も変わってしまうだろう。
動物の事を考えた時、我が家が一番良いと判断した。慣れている二桁だ、どうって事は無い(^^ゞ
先方もそう簡単には渡せないとは思った、数もすごいし、病気の子も居る、一緒に死ぬという言葉も出ていた。
死ぬのは自由だけど動物を巻き込んではいけない、、、と言うのが私の考えの中にある。他に選択肢がないのなら私も一緒に死ぬ事を選ぶかもしれない。
でもわざわざ死ぬ事を選ぶ必要は無いのなら救える命は救うべきである。救いたくても救えない事は沢山あるのだから。
遠慮する気持ちは判る。私だってそうするかもしれない。でも引っ越さなくても無事に過ごせるかもしれない。
引っ越した先で事故に合うかも知れない。地震が来るかもしれない。引っ越さなければ助かるという事もあるかもしれない。
そう考えて結果は判らないが選択肢の一つとしてあるかないかの違い位なものである。そう言う事も全て考えてから提案した。
結果としてロバ以外の動物が我が家に来た。老犬二匹、若犬四匹、猫14匹、鳥二羽 計二十二匹(羽)。
老犬一匹が一週間後亡くなった。入れ替わりに生まれてちょっとの子猫が来た、数は変わらない。
愛称が合わない若犬グループの一匹が新しい家庭を持てた。何とアイスママの家に行った。これも何かの縁だろうか。


♪ぴあんのへや♪からお借りしました♪

INDEX